白木 みのる(しらき みのる、1934年(昭和9年)5月6日 - )は、日本の俳優、実業家。島根県八束郡八束村(大根島、現在の松江市)出身。本名、柏木 彰(かしわぎ あきら)。 父の仕事の関係で日本と満州を往復して育った。小柄な体躯を活かせる騎手を夢見るが挫折する。中学時代から美声を買われ、流しのミュージシャンと共に地元の山陰地方を中心に歌謡ショー等に出演していたが、やがてドサ回りの歌謡劇団にスカウトされて近畿方面を巡業、代役で大阪のキャバレーに出演していた時、大阪劇場の支配人に才能を見出され「ミサイル小僧」の芸名で大阪劇場の専属歌手となった。それまでに「少年田端」「十勝一男」「十代一夫」「ミサイル小僧」「正司彰夫」などと芸名を変えている[1]。 23歳の時に吉本興業にスカウトされ「白木みのる」の芸名を自ら考案。芸名の由来は、本名の姓「柏」の「つくり」と「へん」を分けて「白木」、「なんでも実らなあかん」との理由で「みのる」[1]。1959年、ミヤコ蝶々の『あっぱれ蝶助無茶修業』(関西テレビ)のレギュラーとなり[1]、1961年、大阪・朝日放送の『スチャラカ社員』に「こまっしゃくれた」事務員役で出演、人気を博す[1]。これを機にミヤコ蝶々の押しかけ弟子となった(日向企画所属、マネジメントは吉本興業)。『スチャラカ社員』に出演していた笑福亭松之助とともに、松竹芸能への移籍の誘いがあったが、病気入院のために立ち消えになっている(松之助のみ移籍し、同番組を降板した)[1]。 1960年代を代表するテレビコメディーの『てなもんや三度笠』に珍念役で出演し、時に子役と誤解されつつも藤田まこと・財津一郎らと絶妙な掛け合いを展開し、お茶の間の人気を集めた[1]。しかしNHKからは「白木が出ると視聴者に不**を与える」との理由で長らく出演を許されなかったため、腹を立てた白木は受信料の支払いを拒否した他、NHKが一切見られないよう電器屋を呼んで自宅のテレビのチャンネルを削らせたという[3]。 吉本新喜劇の出演本数も300本以上にのぼり、芝居では白羽大介、ルーキー新一、花紀京との共演が多かった。1968年、『てなもんや三度笠』の終了と共に吉本興業を去って上京、次第にテレビから舞台へ活躍の比重を戻し島倉千代子や三波春夫の舞台に出演したほか、北島三郎の歌謡ショーで30年以上にわたり不動のゲストとして活躍。1年のうち、160日間は北島の特別公演の舞台に立つ日々を送ってた(2011年、芸道生活50周年記念北島三郎特別公演を最後に出演なし)。 2001年、キングジム「テプラ」やMr.ChildrenのアルバムのCMに出演してテレビに復帰、2003年から2004年の連続テレビ小説『てるてる家族』で初めてNHK出演を果たした。永年絶交していた藤田と遂に和解し、2007年10月14日の御堂筋パレードでは一緒に「てなもんや三度笠」号に乗って登場した。 白木は蓄財を基に実業家としても成功しており、2007年現在、兵庫県芦屋市の3階建てマンションのオーナーとして同じマンションで暮らしており、この他に鳥取県内にて両親のために建てた300坪の別荘、芦屋市内に弟**のために建てた60坪の家、さらに淡路島に数万坪の土地を所有している[3]。 独身で結婚歴はなし。「結婚を考えたことはないです」と言い、白木はその理由について「僕は寸法が足りなくて、一人前の人間じゃないからね、女性も困るだろうと思っていました」と述べている[3]。 2019年に『てなもんや三度笠』が**の時代劇専門チャンネルで放送された際、同作品関連の特別番組で演出の澤田隆治が、白木みのるが澤田と藤田まことと同い年である旨の発言をしていたが、実際は白木が澤田・藤田よりも1歳年下であり[4]、澤田のこの発言は事実誤認であると考えられる。 2014年公開の映画『テルマエ・ロマエII』に出演してからは芸能活動を行っておらず、事実上引退したと考えられる[2]。2015年以降は近所にも姿を見せることはなくなり、2020年現在、兵庫県の自宅近くにある老人ホームで暮らしている[2]。 一門 弟子には青芝フック、石倉三郎、室谷信雄らが居り、西川きよしは付き人を務めた。