1954年(昭和29年)3月、同学卒業とともに、同年4月、大映(現在の角川書店映像事業部門)に入社、大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)に配属され、助監督となる。そのころ新人女優として、早稲田大学仏文学科在学中の栗林たか子(1935年 - 2004年)が入社、やがて新藤はたか子と結婚する。1957年(昭和32年)、入社満3年で退社、フリーランスとなり、PR映画等を手がける。1958年(昭和33年)1月20日、長男・新藤義孝が誕生する。 1963年(昭和38年)10月、**映画指定を受けた『おいろけ作戦 プレーボーイ』で劇場用映画の監督としてデビューする[3][4]。同年11月、映画の製作プロダクション「青年芸術映画協会」を結成する。翌1964年(昭和39年)、東芝レコード(現在のEMIミュージック・ジャパン)所属の歌手・内田高子を主演女優に起用、**映画『セクシー東京'64』(1965年3月公開題『**のドライブ』)を撮り、話題となる[7]。1965年(昭和40年)5月に公開された『雪の涯て』は非常に評価が高く、同作で、内田高子に続いて東芝レコード所属の歌手・新高恵子を映画デビューさせた[8]。このころ佐々木元らが師事した。 1969年(昭和44年)、父の勝衛が学校法人川口ふたば幼稚園を設立、新藤は理事長に就任する(現職)[1]。 1971年(昭和46年)3月に公開された『現代寝わざくらべ』を最後に本名での作品発表をやめ、『抱いてい教えて 性と行動』をプロデューサー名「新船澄孝」で発表、1972年(昭和47年)2月に公開された『十七才の情婦』以降、「南雲孝」と改名する[4][9]。1975年(昭和50年)5月に公開された『発情娘 ****体験』を最後に、監督業を辞めている[3][4][9]。1980年(昭和55年)前後には、佐藤忠男、川喜多かしこ、清水晶、登川直樹らとともに、フィルム・ライブラリー協議会(現在の川喜多記念映画文化財団)の幹事を務めている[10]。当時も現在も、日本映画監督協会には登録していない[11][12]。 1988年(昭和63年)、父の勝衛が勲四等**章を受章、1996年(平成8年)5月に死去した[1]。2004年(平成16年)6月3日、妻のたか子が死去した[1]。